Web魚拓: 「研究」と「勉強」の違い

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概要

過去に何度も参照している以下のページが消えてしまいそうな感じがするので魚拓として保管しておきます。

井庭崇のConcept Walk | 「研究」と「勉強」の違い

本文

タイトル: 「研究」と「勉強」の違い

2008.07.25 Friday 23:50 | posted by 井庭 崇

研究会の新規履修者の面接を行った。SFCでは、学部1年生から研究会に所属し、研究に従事することができるので、1年生や2年生も新規希望者としてやって来る。

井庭研の面接は、担当教員の僕が一人で行うのではなく、研究会の現役メンバーを数人交えて行う。というのは、研究会というのは一種の「生き物」であって、もはや僕だけのものではないという思いがあるからだ。僕との相性のみならず、研究会メンバーとの関係もかなり重要なのだ。面接では、新規希望者一人につき、30分の時間をかけて、取り組みたい研究テーマや、興味・関心分野について話をきいていく。

その研究会面接で、僕が必ず言う話がある。それは、「研究」と「勉強」の違いについての話だ。面接で、研究テーマをきいてみると、「~を勉強したい」と答える人が多くいる。こう答えるというのは、「研究」と「勉強」の違いがよくわかっていない証拠だ。研究テーマについて話しているのではなく、これから知りたいことを挙げているに過ぎない。そこで、僕は面接時に、「研究」と「勉強」はどう違うのか、ということを説明する。

まず、「知のフロンティア」があるとしよう。こちら側には、人類が現在知ってる「既知」の領域が、そして向こう側には、人類がまだ知らない「未知」の領域が広がっている。これから研究を始めるとき、当然、僕らはフロンティアに立っているわけもなく、そこから遠いところにいるだろう。そして、少しずつ知識をつけて前に進んでいく。そしてあるとき、フロンティア・ラインの一地点に到達するだろう。このようにして、既知の領域を進んでいくことを「勉強」という。不勉強でビハインドだった自分が、授業や本、人の話などから知識を得て、いまどこがフロンティアなのかがわかるようになる。これが「勉強」をするということだ。

これに対し、「研究」というのは、まったく異なるアクティビティだ。研究とは、フロンティアからさらに一歩前へ進み、既知の領域を広げるということ。もちろん、道なき道を開拓しながら進んでいくことになるので、それはとてもしんどい作業であり、一朝一夕にできるものではない。さて、ここで重要なのは、かならずフロンティアを開拓しなければならないということだ。すでに開拓されているところで、新たに開拓したとしても、それは「車輪の再発明」であり、研究にはならない。SFCカリキュラムの言葉に照らして言うと、「研究=先端×創造」なのであり、「研究とは、先端領域で創造を行うこと」なのだ。「研究」には「勉強」が不可欠だが、いくら「勉強」をしても「研究」にはならない。この「研究」と「勉強」の違いを意識することが、研究テーマを考える上でとても重要なのだ。

この「研究」と「勉強」の違いという話は、実は、僕がまだ学部生だったころ、竹中平蔵先生が研究会でよく語っていた話だ。この話は、「研究」と「勉強」の違いを非常にクリアに言い表していると思う。そんなわけで、僕は毎年、この話を面接のときに繰り返し話す。

研究会は「研究」のための場であるから、研究テーマをもった人たちの集まりだといえる。なので、研究会面接で熱く語ってほしいのは、勉強テーマではなく、研究テーマについてなのだ。荒削りでもいい。「研究」へと向かう志向性がほしい。そして、できるかできないか、という現実性よりも、何をやりたいのかというヴィジョンがほしい。

以前紹介した『音楽を「考える」』(茂木健一郎, 江村哲二, ちくまプリマー新書, 2007)のなかで、茂木さんと江村さんが、次のように語っている。まさにそのとおりだと思う。

(茂木)「若いときには自分の使える技法やツールと、胸に抱いている大志、夢見ている世界との間には明らかに大きすぎるギャップがある。それくらいアンバランスなやつじゃないと、表現者としては大成しないんだということが経験でわかりました。これはほとんど例外がない。」(p.47)

(江村)「結局は、自分に何ができるかじゃなくて、何がしたいかなんです。何ができるかなんて言いはじめたら、何もできなくなっちゃう。まずはそんなことはどうでもよくて、ただただ自分は何がしたいと思っているのか、という問題に尽きます。」(p.48)

面接で僕らが見ることに、自分の研究・活動をドライブするような内発性をもっているか、ということがある。なかなかそれを感じさせてくれる人がいないのが現状であるが。。。同僚の土屋さんは、研究テーマには「愛」か「憎しみ」がなければならない、という。研究へと自らを突き動かす「情熱」が必要なのだ。そうでなければ、しんどい研究作業など続けられるわけがない。

繰り返し言うけれども、荒削りでもいいので、自分なりの研究テーマの糸口をもっていてほしい。そして、自分をドライブする内発性をもっていてほしい。それが、研究を志すみんなへの本質的なメッセージだ。

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